笹塚diary

渋谷区笹塚と秋が好きすぎるシングルマザーの日記

2024.12.19:本は読みたいものだから気になるの

仕事を終えて、息子と元夫とファミレスで食事。
最近これを読んでいるんだ、と言って元夫が見せてくれた本が『こじらせ男子とお茶をする』だった。ちょうど先日、瀾書店さんの夏葉社さんのイベントで私も購入し、まさに読み終えたところだったのでその偶然にちょっと笑う。

書店員でもある元夫は、私が本を売る仕事をしたいということをなぜか知っており(おそらく私がどこかで話したのだと思う)、最近はいろいろと情報をくれる。この日は独立系書店の話、カフェ併設の書店の話、本の掛け率の話など。

結婚していた頃はこういう話はできなかった。関係がぎくしゃくしていた最後の数年は、元夫が本に関する仕事をしているというだけでなんとなく本の話題を遠ざける気持ちが自分にあった。

二人はあちらの家へ、私は笹塚へ。まだ本調子でないパートナーは早く寝るというので、私は代田橋方面へ夜の散歩に出ることに。行き先は深夜まで開いている「バックパックブックス」さん。店主の宮里さんにコーヒーを差し入れつつ(非礼のお詫びでもあった)、お話をさせてもらう。ちょうど日中、先日置かせてもらった『笹塚diary』が1冊売れたとのこと。買ってくださったのがどんな方だったのかをお聞きし、いろいろと想像をめぐらせてうれしくなる。

古書棚に島尾敏雄の『死の棘』の初版本があったので、手元に置いておきたいと思い、買って帰った。今読んだらどんな気持ちになるだろうか。

ふと気がつくと“積読”が増えていた。普段は買った本や借りた本から順番に読んでいくことに決めているのだけれど、最近は日記祭で買った日記本や、文フリで買い逃して通販で買った本、独立系書店を巡っているうちに手に入れた本で山ができている。特に作りの繊細なZINEは移動時間に持ち歩きづらく(汚れてしまいそうで)お風呂の中でも読めないので、読む時間をつくるのに工夫が要る。管啓次郎さんは「本は読めないものだから気にするな」と言っているけれど、私の場合は「本は読みたいものだから気になるの」、だ。

先日パートナーが、買っても最後まで読まない本もあると言っていてびっくりした。読み始めたらその先が気にならないのだろうか(最後まで観ない映画なんてある?と言ったらそういえばないね、と言っていた)。

図書館で借りてきた本の中には途中で読むのをやめてしまったものもあったけれど、買った本の中で読みきらなかったものはほぼなかった。昔から読書のことをどこか食事と同じように思っていた気がする。最後まで読まないと食べ残した気持ちになるし、買った本は鮮度が落ちる前に読んでしまいたいと。

そんな風に、ただ読むものとしての「物質」だと捉えていた本のことを、最近は書いた人や作った人、売った人の心を伝える「媒介」だと感じられるようになってきている。本との向き合い方が変わってきた今、読書に対する考え方も少し変えてみてもいいのかもしれない。

積読を眺めて焦るのではなく、楽しい気持ちになれるように。

本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ち葉や草の岸辺だ。流れは方向を変え、かすかに新たな成分を得る。問題なのはそのような複数のテクスチュアルな流れの合成であるきみ自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかということにつきる。

「本は読めないものだから心配するな」管啓次郎